事務所の概要 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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設計例 |
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Mさんのお住まい |
浜松市東区/延べ床面積139.65u/構造:木造2階建て/施工:大須賀建築/平成22年6月 |
Hさんのお住まい |
浜松市浜北区/延べ床面積174.72u/構造:木造2階建て/施工:木下建築/平成22年6月 |
Oさんのお住まい |
浜松市中区/延べ床面積148.37u/構造:木造2階建/施工:戸田建築/平成21年9月 |
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Wさんのお住まい |
浜松市浜北区/延べ床面積127.93u/構造:枠組み壁工法2階建/施工:大場建築/平成21年9月 |
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Mさんのお住まい |
浜松市浜北区/延べ床面積114.20u/構造:木造2階建/施工:戸田建築/平成21年3月 |
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Iさんのお住まい |
浜松市西区/延べ床面積219.44u/構造:鉄骨造2階建て/施工:鳥海建築/平成21年2月 |
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Yさんのお住まい |
浜松市東区/延べ床面積138.28u/構造:木造2階建て/施工:戸田建築/平成20年11月 |
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Sさんのお住まい |
浜松市浜北区/延べ床面積187.14u/構造:木造2階建て/施工:河合建築/平成20年6月 |
Kさんのお住まい |
浜松市貴布祢/延べ床面積91.91u/構造:木造平屋建て/施工:戸田建築/平成18年10月 |
Aさんの介護ルーム |
浜松市半田山/延べ床面積18.21u/構造:木造平屋建て/施工:一部分離発注/平成17年12月 |
Mさんのお住まい |
浜松市早出/延べ床面積124.20u/構造:木造2階建て/施工:分離発注/平成17年7月 |
Tさんのお住まい |
浜松市新原/延べ床面積206.88u/構造:木造2階建て/施工:戸田建築/平成17年3月 田園地帯の集落内に建つ大きな余裕の間取りの家です。 |
Yさんのお住まい |
浜松市八幡/延べ床面積154.99u/構造:木造2階建て/施工:分離発注/平成16年8月 |
Tさんのお住まい |
浜松市佐鳴台/延べ床面積145.74u/構造:木造2階建て/施工:分離発注/平成16年6月 |
Mさんのお住まい |
浜松市舞阪/延べ床面積256.29u/構造:木造2階建て/施工:鳥海建築/平成14年8月 旧街道に面した旧家を取り壊し、前面に広い庭を配した珍しい邸宅 |
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I さんのお住まい『杉の家』 |
延べ床面積121.58u/構造:木造2階建て/施工:分離発注/平成14年1月 平成14年度静岡県住まいの文化賞作品集冊子(pdf) 詳細は⇒杉の家をご参照ください。 |
Sさんのお住まい |
浜松市有玉西/延べ床面積144.23u/構造:木造2階建て/施工:河合建築/平成12年7月 眺望を生かすべく1・2階逆転のプラン。 2階の南側にリビング 北側車庫(シャッター)上は中2階にある主寝室 |
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浜松市Y公民館 |
延べ床面積:196.99u/構造:鉄骨・木造平屋建て/施工:足立建設梶^竣工:平成9年 田畑に囲まれた集落の集会所。 緑多い閑静な環境に対峙する単純で落ち着いた建物建物をローコストで造りました。 集会室32帖、舞台、和室8帖2室、湯沸し室8帖、雑庫6帖、ゆったりした玄関・ホールなど |
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ほか、設計事務所勤め時代から数百棟の住宅・集合住宅・商店・工場等の設計に携わっております。 |
貴布祢の家 |
延べ床面積225.49u/構造:木造2階建て/施工:□□建設梶^平成7年 大きな屋敷の旧家を取り壊しての建て替え、写真に入りきれない続きの離れがある |
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佐鳴湖の家 |
延べ床面積227.16u/構造:木造平屋建て/施工:鳥海建築/平成9年 区画整理された住宅地に立てられた和風邸宅 |
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■主宰者プロフィール | 略歴(自分史) 1959年8月 静岡県浜松市上島町に生まれる。 今ではなんでもないが、8ヶ月(早産)の未熟児で生まれたので育つか心配だったみたい。 1962年10月 父が病死。母1人子1人になる。 アヤフヤな記憶をたどれば、母は近くの工場に働きに出なければならなくなって祖母が来て面倒をみてもらっていたような…。 その祖母も入院して、母に連れられて見舞いにいったような… 幼稚園にあがる前は、山奥の祖母の家に預けられ野山を駆け回って遊んだ記憶がおぼろげに…。 1965年4月 上島幼稚園入園(1年) あまり記憶に残っていない。 鍵っ子で、はじめての集団に馴染むのに精一杯の1年間だったと思う…。 1966年4月 上島小学校入学 1970年?月 大阪万博(EXPO'70)へ 母子家庭では行ける余裕はなかったが、知り合いの建設会社の慰安旅行に便乗して連れて行ってもらった。 …といっても、日帰りバス旅行では人気パビリオンを観覧するほどの余裕もなく、覚えているのは『虹の塔』ぐらい?…。 太陽の塔と2個のキーホルダーとペナントを未だに宝物。 1971〜1972年 小学校6年の時まで住んでいた所が、区画整理で四ツ池公園第二球場のど真ん中。 移転を強いられ20坪の小さな家を新築することになった。 大工仕事を間近に眺めたことで漠然と『建築大工』に憧れた頃。 小学校の6年間は、好きな教科(社会科など)の好きな事は教科書以上に勉強したものの、嫌いな=わからない教科はできないままに…。朝夕は畑仕事、昼は工場、夜は針仕事など…昼夜を問わず働く母の傍らで、勉強のわからないまま遊び呆けていた小学校時代。 (勉強をするように言われたが、教えてもらえるような学歴のある母ではなかった。) 1972年4月 曳馬中学校入学 勉強は相変わらずわからないところをそのままに、好きな教科(社会等)だけ。 部活動は、ちょっとだけバレー部に属するも、根っからの体育オンチでリタイヤ。 クラブ活動は、1年では模型工作クラブに属し、当時買ってもらえなかった『野球盤』を工作。 2年は担任が顧問の鉄道研究クラブへ…。旅行経験がなかったから時刻表で旅をする気分を味わっていた。 また、この年は全国からSL(蒸気機関車)が消える。夏休みにクラブで伊勢の参宮線に乗りにいったのが最初で最後の蒸気機関車。精巧なC−53(蒸気機関車)のプラモデル造りも経験でき充実した1年間だった。(勉強はそっちのけ!) 3年は模型工作クラブに舞い戻る。電子工作にはまり、光りを当てる方向に動く車『キョロタン号』を工作。(キットではないから部品集めから奔走) 中学校3年になって、高校入試の事など頭になかった私は、志望校に浜松工業高校建築科を口にするも、成績がはるかにおよばなかった。 中1以来ずっと好きだった女の子とは、卒業後数年間まで年賀状交換できたぐらいで何ともならなかった。 1975年4月 県立静岡建築高等技能専門学校&浜松工業高校定時制建科入学。 昼は大工技能の訓練学校(1年)で学科と実技を学び、夜は高校普通科目+建築科目を学ぶ。 1976年4月 河合建築に大工見習い(小僧)として入社。 昼は仕事、夜は学校という勤労学生の毎日をおくる。 当時の定時制高校は、夜学と呼ばれた先輩世代のように向学心から入学してくる者は少なく、入学時に40人いたクラスメイトは仕事と学業の両立が適わず卒業時15人に減ってしまった。 私は建築の科目が好きでもあり、普通科目は必要に迫られ一応勉強していたので、勉強しない級友を尻目に成績はトップクラス(自慢にもならないけど)初めての快感を味わう! 1978年 他校の定時制女の子に声を掛けドライブまでこぎつけるも…。(当時の定時制生徒は、18歳になると免許取得して学生服着て自動車通学をしていた。) 1979年1月 浜松工業高校(全日制)教師の紹介で設計事務所に転職。 肉体労働から事務所WORKへ180度違う仕事で、はじめのうち朝から夕方まで座っていることが苦痛だった。 1979年3月 卒業設計が建通新聞社の賞を受ける(駄作だけど…) 浜松工業高校定時制建科卒業(4年間皆勤は自慢!) 1981年10月 二級建築士免許は難なく取得 大工という住宅を造る仕事に直接携わったことで、並みの建築士より現場を知っていることは強みと自負している。 今思うと、設計しか知らない人間に建物のことが分かるのか? 自分は一人前の大工になる前に転職してしまったけど、大工の棟梁が図面を描く(設計する)のが一番理想的と思う。 木造以外に興味が沸かず、一級建築士の資格は取らず終い。。。 1981年11月 ♪もしもピアノが弾けたなら♪ ピアノのせんせと交際をはじめる。 自分は全く楽器演奏ができないからあこがれていた。(小中学校の音楽は散々な成績。) 1984年5月 結婚。 物心ついて以来母1人子1人の二人家族に嫁が加わってバラ色の生活もつかの間…。 世間並みの嫁・姑戦争が勃発。 両方とも大切なので板ばさみの大変な毎日だった。 1985年10月 長男誕生。 てんやわんやの子育てに夢中の毎日でした。 嫁・姑も相変わらずで…。 1986年2月 4WD車(スバル アルシオーネ)購入がきっかけで、年甲斐もなく雪遊びに興じる。 1987年 友人の影響で初めてスキーに興じる。 1988年 本格的にスキー(遊び)を始めたことからワンボックスタイプの車に乗り換え、家族でのスキーや温泉・観光目的のオートキャンプを始める。 1991年11月 自宅新築。 設計事務所勤めながら、“神様”の積水ハイム耐震性に惹かれたのが間違いの元!大失敗!だった。 家は、ブランドや看板で建てるべきでないことを身をもって痛感。 施主が建築士なんだから、一般消費者と同じ施工体制では欠点まるわかりだってば…ハイムさん! 1992年12月 二男誕生。 嫁・姑戦争は最盛期? 仲が良いのか?似たもの同士なのか?実の母娘のような喧嘩騒動が続いてました。 1994年9月 勤めた設計事務所が経営不振で、独立して豊夢創屋建築設計事務所を独立主宰する。 高校在学中に入った事務所は、いわゆる代願設計事務所。 所長は、行政書士や土地家屋調査士事務所も兼ね、建物の構造計算までやってのけるスーパーマンのようだったけど、付き合いの建築業者や不動産屋に悪いところも多く、危なっかしい建築確認申請の片棒を担がされた。 私一人で、小さな住宅の増築から、S造3階建て程度の共同住宅や工場の確認申請を最大80件/年ほどやっていたから、ほとんど工事監理を行えるはずもなかった。 1997年9月 平成9年9月9日長女誕生。 …銀河鉄道999ならぬ、あとから思うと三重九だった…。 1998年2月 長野オリンピックが始ったばかりのある朝、未明から娘の容態がおかしく救急車で…3時間後に急死。 未だに月命日には墓参りをかかせないでいる、私ども夫婦の人生最大の試練!。 2000年1月 三男誕生。 本人には申し訳ないが予想外の妊娠。 だけど、『この子がいなかったら…』と思うほど、この世に生を受けてくれたことに感謝!感謝!感謝!の毎日です。 2001年 知り合いから『終の棲家』の設計依頼が舞い込む。 一般的に行われている住宅づくりでは40年以上住み続けることは難しい。 飽きさせないで耐震・耐久性抜群の住まいづくりを『分離発注』という手法で建築主も巻き込んで行った。 昔の大工修業経験も生かし、後の分離発注での住まい造りの土台になった。 おまけに、静岡県住まいの文化賞まで戴いた。 2002年 自分が幼児だった頃のトランジスタMicroテレビの購入をきっかけに、2005年頃まで昭和30年代から50年代のMicroテレビの収集にあけくれる。 いまだに幾台かのMicroテレビを所持するものの、テレビ放送のデジタル化で受信できなくなるのが悲しい。 自分と同年齢の昭和34年製真空管テレビが完動品…。 2003年 杉の建物を設計するたびに、我が家が益々嫌になり木造表わし構法の離れ家をハーフセルフビルド。 かつての大工修業経験を生かし、上棟以後のほとんどの造作工事をセルフビルドした。 2005年4〜9月 名古屋万博『愛・地球博』へ6回行く。 あれほど反対運動が持ち上がった万博に興味も無かったけれど、我が身を振り返り大阪万博の思い出から息子たちにも思い出を残してあげようと5月16日に初観覧。 会場前の長蛇の列に始まって会場内を駆け回って『グローバルハウス』、『JR東海 超伝導リニア館』、『三菱未来館』等から『サツキとメイの家』、『三井東芝館』まで良い思いでづくりをしたのが運のつき…。 その後も、『トヨタ館』、『日立館』『日本館』等の主だったところから、外国館や『プロトタイプ ロボット展』、感動の『国際赤十字』、瀬戸会場など…。五歳の三男にも幾つかは記憶に残るであろう体験をさせてあげることができた。 11月 構造計算書偽造問題が発覚。悪質性の大小はあろうが建築業界に限らずどんな業界でも行われているであろう違法行為。 設計事務所勤務時代から悪質な建築業者との付き合いもあり、そんな中でも建築主の為にならないことは出来る限り避けてきたが…。 娘が天国で見てくれるようになってからは、そうした業者との付き合いをきっぱり止めたことで生活は苦しくなった。A元一級建築士の気持ちもわからぬでもないが…。 2006年6月 転居。 生まれ育った地は名残り惜しくもあったけど、長女の命を奪ったこの地と、“神様”でもなんでもない欠陥住宅に住み続けることに我慢ならなくなった。 住宅ローン一括返済の奥の手として転居を選択。 父母の残した土地と比べると随分と狭いものの、草取り等管理をするのもバカにならず最小限でもいいのでは…と? …というのも、小さな畑をつくり、屋敷内の草取りをしていた母が5〜6年前より具合が悪くなった。 あれほど犬猿の仲だった妻が面倒を見、やがては介護をすることになった。1991年築の家は、介護保険を使って手摺りを取り付けるなどの改修を行ったものの介護に不向きだったことも転居の後押しになった。 2007年 杉の無垢材を多用した内装と、車椅子に配慮した新居は快適そのもので、母には良い環境で最後のときを過ごさせてあげることができた。 東京学芸大学3年のはずの長男は、無断で休学をして半年間の世界放浪に出ていたことが、11月下旬、突然の帰郷して判明。まんまと騙されてしまった。。 あれほど可愛がっていた祖母(私の母)は大喜びだったが、直後に体調を崩し1ヶ月あまりの入院を経て永眠(83歳)した。 音楽教室を営みながら、自宅で最後まで看取ってくれた妻には、ただただ感謝!感謝!感謝!。 2010年 三男が10歳になる。 現在、あらゆるジャンルのドラムを叩いている。 サポートしながらどんな成長をみせてくれるのかが楽しみなところ。 |
PC環境 |
◆歴代PC本体 ・SONY VAIO Note VPCF11AGJ Intel(R) Core(TM)i7 CPU Q820@1.73GHz(3.06GHz)/8GB/ Windows7 Professional・・・2010.04 ・SONY VAIO PCV-RX75 pentium4 2.20GHz/512MB/ WindowsXP HomeEdition/HardDisk120GB/DVD-RW/DVD-ROM 2002.01 ・SONY VAIO Note PCG-XR100E/K pentium750/128MB/ Windows2000 Professional⇒WindowsXP ・SHARP Mebius PC-DJ50M/pentium350/192MB/Windows98 ・SHARP Mebius Note MN-7860/ pentiumMMX166/128MB/ Windows95 ・NEC PC-9821Note Na12/H10/pentium120/16MB/Windows95 ・NEC PC-9821Xn pentium90→150/39MB/MS-DOS&Windows95 ・NEC PC-9801Note NA/C i486SX/20MHz/ 2.6MB ・NEC PC-9801VX21 80286/10MHz/ 640KB ・MacのMacintosh PLUS 1MB Mac Draw(Mini-CAD以前のもの) ◆歴代PRINTER ・EPSON PM-4000PX 2003.11 ・Cannon LASER SHOT LBP-1610 ・EPSON PM-950C ・EPSON PM-3000C ・EPSON PM-2000C ・EPSON MJ-3000CU ・Cannon LASER SHOT LBP-A309G II ・NEC PC-PR201F ◆歴代SCANNER ・Cannon 8800F ・Cannon Canoscan D2400U ・EPSON GT-9500 ◆Digital Still Camera ・SONY α350 ・SONY α100 ・SONY Cyber-Shot DSC-F828 810万CCD 2003.12 ・SONY Cyber-Shot DSC-F717 520万CCD ・SONY Cyber-Shot DSC-F707 520万CCD ・SONY Cyber-Shot DSC-F505V 334万CCD ◆歴代Still Camera ・CANNON EOS100 ・CANNON EOS630 ・OLYMPUS、OM2-N、OM10 etc. ◆歴代Video Camera ・SONY HDR-HC7 ・SONY HDR-FX1 ・SONY DCR-VX2000 3CCD ・SONY DCR-TRV900 3CCD ・SONY CCD-VX1 3CCD ・SONY V900, V800, V90, V35 ・OLYMPUS etc. ◆歴代OS ・Windows7 Professional ・Windows XP Professional ・Windows2000professional ・Windows98 ・Windows95 ・MS-DOS ◆その他 ・Roland STIKA PLUS STX-8 ◆主要建築関係ソフト ・CADツール DRA-CAD8 ・CADツール DRA-CAD for Wimdows Ver.3.1 ・建築専用3次元CG作成ツール MADRIC CG2000 ・木造住宅構造計算システム STRDESIGN Ver.10.2 ・ベクタライズユーティリティー Vmaker Ver.2.0 ◆ホームページ作成 ・ホームページ・ビルダー V11 |
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